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代表者経歴

代表者経歴

代表の本多祥嗣(ホンダヨシツグ)です。1979年6月20日一卵性双生児の長男として生まれました。既婚者です。岡山県玉野市を拠点とする、町の電気屋ドクターです。

お客様のお家に訪問するサービスを基本としておりますので、少しでも安心していただくため、私の自己紹介をかねて、幼少からの経歴を紹介させていただきます。

よろしくお願いします。

誕生~学生時代

1979(昭和54)年6月20日 岡山県岡山市に生まれる

一卵性双生児の長男として生まれました。
男・男のtwinsです。私が先に世に出てきたので長男になりました。

弟が好奇心旺盛なのか?怖いもの知らずなのか?
いつも弟の方がなんでも先にしていたらしく、私は弟の姿を見て後を追っていたみたいです。

幼稚園に木の破片や金槌があり、木工作や牛乳パックでいろんなものを作って楽しんでいたのを覚えています。この頃から運動も好きでした。

1986(昭和61)年 岡山市立芳泉小学校入学~

小学校の頃は人前に出るのは苦手で、授業中に「この問題をわかる人は手をあげて」みたいなのが嫌でした。はずかしい気持ちが強かったです。

低学年の頃は背が高く、いつも一番後ろにいました。
運動神経がよく、なんでも上手くこなしました。体育の授業では全員の前でお手本のような役割で、この頃はスポーツを仕事にできたらいいな~と幼心に思っています。

正義感も強く、上級生だろうが関係なく間違いをただしに向かっていってよく撃沈されてました。
この頃から「正義だけでは生きていけない」ものだと悟っていました。(嫌な小学生です。)

3年生から6年生まで母親にやれと言われ、町内の子供会のソフトボールを始めました。小学校時代はどの大会でもほぼ優勝していたので楽しかった記憶があります。小学校最後の大会は手の怪我で出られず、とても悔しい思いをしました。

1992(平成4年)年 芳泉中学校入学~

中学生の頃は性格的にはさほど変わらずでしたが、みんな身体が大きくなって昔みたいに運動神経だけで目立つことがなくなりました。

野球部に入り3年間続けました。運動だけは負ける気がしませんでしたが、3年目の大事な夏の大会のレギュラーメンバーから外れてしまい、人生初の挫折を感じました。

いつも当たり前にレギュラーメンバーであり運動神経に自信があった自分にとって、これほどまでに落ち込んだことは経験がありませんでした。本当に自分が嫌になりました。その反面、レギュラーになれない人の気持ちを知ることができたので結果的にはよかったと思っています。

最後の夏の市総体では、レギュラーを勝ち取り準優勝することができました。とても嬉しかったです。

中学3年生くらいから、人前で話したり目立つようなことをしたりしても平気になりました。色々なことに興味をもって、自分から進んでやっていました。修学旅行の実行委員になったり、旅行当日みんなの前でスピーチしたり、体育祭の応援団をやったりもしました。悪友ともいえる面白い仲間たちと、楽しく青春時代をおくりました。

1995(平成7)年 岡山県立岡山工業高等学校電気科~

高校では野球部とサッカー部で迷い、申し込みの締め切り最終日に友人2人に誘われてサッカー部に入りました。

しかし、誘ってきた友人2人は夏休み前にバイトをするために部活をやめてしまいました。誘っておいてやめるなんて…ヒドイ話です。(笑)

友人は退部してしまいましたが、2年の夏に3か月ほど足の怪我で動けなかったにもかかわらず、チーム内得点王で引退まで頑張りました!運動神経のよさを活かした3年間でした。

高校時代は洋画にもはまり、よく観ていました。「自分の姿を鏡で見ろよ」言われそうですが、映画鑑賞が影響したのか役者を目指そうかと思い、進路面談で相談したくらい本気で考えた時期もありました。

父の家業である空調設備の仕事を間近で見ていた影響か、進路を決める頃に工事関係の興味が強くなりました。作業している姿がかっこよく見えたのも決め手になり、電気工事業の道に進むことにしました。

社会人:会社員時代

1998(平成10)年4月 福山に本社がある電気工事会社へ入社

社会人1年目の春、福山の本社へ1年間修行に行きました。
はじめての寮生活は、同期入社で2歳年上の方と相部屋でした。

同僚とは別の配属先でしたが、入社前から電気工事の経験があったようです。先輩からも一目置かれる存在となり、自分がやったことのないさまざまな仕事をしていました。

寮に帰ってくると「今日はこんな作業したとか、こんな現場に行ってここまで施工した…」と聞かされて、内心とても悔しさを感じていました。

福山での修行期間中はほとんど現場作業の仕事をさせてもらえず、会社の倉庫掃除や整理整頓が多かったような気がします。

大きい物件の仕事が多く、なかなか経験できない規模の現場で仕事ができたのは、いま考えればよい経験だったと思います。会社の先輩たちにも恵まれ、修行も無事終わりました。その後は、岡山支店へ移動になりました。岡山支店に配属され、同じ高校を卒業した3つ上の先輩に出会いました。

この先輩がとても優しく面白い方で、プライベートでも仲良くしていました。本社の修行時代にはできなかった仕事をどんどんまかせてくれたことで、自分でも成長を感じることができました。日々の仕事がとても面白くなってきました。

この先輩との出会いから仕事の面白さを知り、社会人としての居場所も作ることができました。いまでも感謝しています。独立した現在も、協力業者として仲良くしています。

会社員としてさまざまな現場や職務を経験し、16年が経ちました。自分の工事施工能力と設計・積算・人とのコミュニケーション能力・後輩等や人に教える能力など、自分のスキルにも自信がつきました。独立開業をする決意を固め、2014(平成26)年12月に退職しました。

2008(平成20)年2月 第一種電気工事士を取得

高校在学中に第二種電気工事士を取得していましたが、会社として公共工事等を受注希望する場合、会社の点数が高い方が有利になります。

そして資格種類や取得者数によって点数が変わってくるので、会社としてはたくさん取得してもらう方がメリットになり、取得した社員には資格手当等もつきお互いにメリットがあります。

第二種だと、いわゆる600ボルト以下の受電設備までしか施工できません。店舗や工場などは、高電圧の電気(電気最大電力500キロワット未満)を使用することもあります。10年目になる節目もあり、のちのちは独立も考えていたため、第一種の免許を取得しようと決めました。

難しかった点は、実際の業務内容とは一部異なっていたことです。試験には、学科と実技があります。普段使わない材料で実技を行い、なかなか練習できず困りました。

2012(平成24)年4月 1級電気工事施工管理技士を取得

電気工事施工管理技士にも2級は存在しますが、取得するのが面倒なので1級にしぼって受験しました。1級と2級では受注できる金額に差があり、管理できる現場の制限にも差があります。

取得することで会社にメリットがあるうえ、資格があると印象や信用度が違います。今度のことを考え、取得しようと思いました。

試験には学科と実技があるのですが、とくに学科が難しかったです。出題科目の範囲が広く、勉強の仕方でとても苦労しました。

学科は選択問題でしたが、実技はこれが正解という答えがない問題でした。管理者として作業者の安全や効率・現場にたいして注意する点などを論文にまとめる必要があり、経験値がためされる内容だったため、とても苦労しました。

独立開業~

2015(平成27)年6月 電気工事関連事業の個人事業として独立開業

会社員として16年間頑張ったご褒美として、少しゆっくりしようと思いました。電話番号を変更してあまり人に教えていなかったのですが、独立後すぐに仕事が舞い込んできました。

ありがたいことですが、正直にいえばもう少しゆっくりしたかったです(笑)現在も調整しないと身体を壊しそうなほど、お仕事の依頼をいただいております。

40歳を過ぎ、若い頃と同じ働き方をしていると身体を壊す危険があると感じました。お仕事の依頼に感謝しつつも、健康とのバランスも考えたい。そんな時、とある方に出会って独立時の夢を思い出しました。

2020(令和2)年12月 ホームページ開設

独立時の夢は、電気についての困りごとに対応できる【町の電気屋ドクター】です。

ある方から「男の41歳厄年は、役に立つ年よ!儲かってるならそのままでもいいけど、町の電気屋さんをやれば喜ばれるよ!」と言われ、やりたかったことを思い出しました。

会社員時代からのご縁でさまざまな現場仕事をいただき、忙しさで忘れかけていました。自分が本当にやりたかったのは、個人宅や店舗・オフィスの電気に関わるお困りごとを解決すること。お客様に直接「ありがとう」と言っていただけるお仕事をするのが夢でした。

独立してから5年も経っているのに、ホームページもなく、やり方がわからないままに時間が過ぎていました。コロナの影響による社会変化もうけて、本来の夢の実現を目指そうと考え、ホームページを開設しております。個人宅向けサービスやお家サポートも開始することにしました。

41歳厄年は役に立つ年(役年)と考えております。いままでのお仕事も継続しつつ、地元に愛される「町の電気屋ドクター」になっていきたいと思っています。